皆さん突然ですが、お花見は行かれたでしょうか
桜前線もますます北上し、このあたりの桜は見頃を過ぎて、少し寂しいなーなんて思っていないだしょうか
そんな皆さんに朗報です
今年の桜は見逃したーって方でも、GWに見ごろを迎える桜スポットをご紹介したいと思います
皆さん「荘川桜」って御存知でしょうか
岐阜県高山市荘川町にある、樹齢400年を超える2本の巨木なんですが、現在の姿に至るまで様々なバックグラウンドのある桜なのです。
話の始まりは1960年、御母衣ダム建設により水没する予定地を視察中、光輪寺の庭にあった巨桜を見たダム建設事業主である電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁高碕達之助は「なんとかこの桜を救えないものか」と、市井の桜研究家で「桜男」とも称された当時の桜研究の権威笹部新太郎に移植を依頼したことから始まりました。
当初笹部はその困難さから、これを固辞したものの、高碕の熱意に絆され、結局は引き受けることとなった。
その後、桜移植の事前調査にあたるため同地を訪れた笹部は、同様の桜の巨樹が照蓮寺にもあることを知り、この桜も移植することを提案し、2本同時に移植することとなる。
笹部指導の下行われた移植工事は、世界的にも例がないといわれるほど大がかりなものであったうえ、樹齢400年以上という老齢とその巨体、更に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるほど外傷に脆弱な桜を移植することもあり、困難を極めた。
可能な限り枝や根を落とした桜をダム水面上となる丘まで運搬し、移植したが、無骨な幹だけの姿は無残な姿にも見えたため、当時、笹部や高崎には水没地住民や世間から「むごい仕打ち」「いずれ水没するのに追い討ちをしなくても」などと非難が集中した。
しかし笹部の目算通り、その翌1961年春、桜の活着が確認。
1962年6月に行われた水没記念碑除幕式で当時の藤井崇治電源開発総裁により「荘川桜」と命名された。
移植以来、同社の継続した保守管理もあり以降も年々枝葉を伸ばし続け、現在はかつてのように美しい花を咲かせている。
荘川桜の活着当時、桜にすがりついて泣いた元住民もいたといわれる。
平成10年頃までは水没地の元住民の集まりである「ふるさと友の会」が春先に荘川桜の元に集うなど、元住民にとっては現在でもかつてのふるさとの象徴的存在となっている。
こんなバックグラウンドを知ってから見る桜はまた一味違うと思いますので、GWのご予定がまだの方一度ドライブがてら見に行ってみてはいかがでしょうしょうか(=⌒▽⌒=)♪♪
以上、不動産部:しょうへいでした。